ミステリー

2008年9月19日 (金)

霊視者

これまで何回か書いた「ミステリー」は福岡在住のある霊視者と一時間ばかり親しく懇談する機会を得たことにある。その彼が本物であるか偽物であるかは現在でも分からないというのが結論である。何せ普通の人には見えないものが見えるというのだから、私には確かめようがない。でも何かを持っている人だと思うが、それが何だかはよく分からない。例えば医者と同じぐらいの医学的知識を持っている。また人の仕草や表情からその人の感情や性格まで鋭く感じ取ることができるのかもしれない。 しかしそれだけでは、10年ぐらい先のことまで予測できるのは何なのかよく分からない。彼は霊が教えてくれるというのだが霊魂ならば何でも分かるということになるが、所詮霊なんて見たことがないので、コメントしようがない。
彼は見た感じでは普通の人であり、違和感は全くなかった。例えば我が家には悪霊が憑いているので、除霊しなければならい。100万払えば除霊してやる。とか言われれば、こいつはペテン師と思うのだが、私と妻と娘を気軽に只で見てくれたし(1時間で一万円かかる)、いかがわしいところは何もなかった。そして東京にいる娘が妊娠初期で流産しかかっていたのだが、無理をしなければ無事に生まれる。そして「子供は男の子です」と断言した。当たる確率は5割だが、外れる確率も5割ある。外れれば何だ偽物ではと思われる訳だからなにも霊視能力を疑われる危険なことを断言する必要はないはずである。
前にも書いたが、本来、占い、霊能、霊視、予知能力などは、神の領域である。だからそれらで商売をするということは、神の領域を侵していることになる。ゆえに神様に見つからぬようにひっそりとその能力を使うべきだと山人は思うのである。だからかような一般人から見て理解できない能力を持つと称する人を、偽物と言い切るのは簡単である。しかし古稀となり余生を楽しむことが出来る齢になれば、科学で証明できぬものが世の中にあっても、それらを楽しむ余裕が出てくるのである(但し大枚を要求するものは要注意、多分インチキだと思うべし)。
そして今六ヶ月を過ぎた娘のおなかの子は「男の子」である。うむ、もしかして彼は本物かも知れない!

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2008年9月 6日 (土)

ミステリー7

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庭に咲いていた野の花、名前分かりません。

ミステリー1~6で私の家族の災難を書きつづってきたが、ただ独り災難を免れていた私の話である。
息子が九死に一生の大事故を無事乗り越えたのち、平穏な日々が数年続きました。しかし体調は悪く「頭の中に鉛があるようだ」が口癖となり、抗うつ剤と、睡眠剤は常備薬であった。今まで一番熱中したテニスもやる気が失せてしまっていた。ある日曜の朝、目覚めると異様な世界があった。医学的に言えば複視、つまり物が全て二つに見えるのである。どんなに眼をぱちぱちさせても直らない。手探り状態で洗面所へ行き鏡を見ると、右目が白眼になっている。このとき母が亡くなった後、私も通院するようになり、今や友人として家族ぐるみの付き合いをしている主治医へすぐ妻が電話した。日曜日だったがすぐ往診に来てくれた。診察の後、「複視の原因は眼ではない、頭にある」と言われ、すぐに主治医の先輩が院長をしている病院へ入院手続きを取ってくれた。そしてこの入院は一ヶ月以上の長期になるだろうと言われた(実際は三ヶ月かかった)。翌日ドクター夫人が車で病院へ連れて行ってくれた。そして初めてのMRIを撮った。翌日、病院の担当医から、脳の下垂体に腫瘍がある、しかもかなり大きい、手術が必要と言われた。正確な病名は「下垂体線腫」良性腫瘍であると言われたのだが、脳腫瘍と言われたところで目の前が真っ暗になり、その後の記憶が途絶えてしまい、良性腫瘍という言葉は翌日になって思い出したのである。翌日から片目つぶらないと歩けないので、眼帯を付けた。眼科、耳鼻科の検査を受け、手術は札幌、東京、名古屋、福岡、熊本と、当地の病院を紹介されたが、看病する妻の健康などを考え、当地の脳神経外科で手術を受けることに決めた。ところが不思議なことが起きた。この病院には二十日ぐらい入院していたが、十日目ぐらいに眼をぱちぱちさせていると、すうとピントが合い、複視が直ったのである。複視は腫瘍が視神経を圧迫しているからであり、侵された視神経はよくなることはないので、複視は死ぬまで続くだろうと言われていたのである。物は眼で見ると思っているが違うのである。物は視神経で見るのである。だから眼球が正常でも視神経が侵されると目は見えなくなるのである。
「これはおかしい、ありえない」と言うことになり、腫瘍の形が変わったのではということで、院長から悪いがもう一度MRIを撮らせてくれと言われ、二十日間の間に二回もMRIを撮られたのである。結果は全く腫瘍に変化はなかった。後でよくMRIを見た結果、複視は腫瘍と関係がなかったといわれた。主治医は神経の専門医であるが、彼も腫瘍は動眼神経と離れている、複視と腫瘍は関係ないと断言した。
では複視はどうして発症したのか、あたかも私に「頭に腫瘍があるよ、早く手術しなさい」と教えるために現れたとしか言いようがない。親戚一同に脳腫瘍になった者など誰もいないし、「頭の中に鉛が入っているようだ」が私の口癖だったが、心の片隅にも脳に腫瘍が有るなど考えたことはなかった。毎年一泊二日の人間ドックでも脳の検査はなかったし、複視が発症しなければ、重度の後遺症が残ったかもしれないのである。執刀医から「あなたの術後経過はよすぎるぐらいによい」と言われた。腫瘍は全部取れなかったので、あなたの寿命と残した腫瘍の成長とどっちが早いかと言われたのに、十年以上経った今、腫瘍に全く変化がないと言われている。
今や抗うつ剤も、睡眠薬も飲んでいない。口癖だった頭の中の鉛もとれてすっきりしている。眼帯を付けないと歩けないような重度の複視が手術が決まると、自分の役目が終わったとばかりによくなってしまった。これが私には未だに分からぬミステリーなのである。もしや母が………

2008年8月21日 (木)

ミステリー6

さてラストは次女の話。ミステリーとは関係ありません。
次女は整列すればいつも前から一番か二番というぐらい体は小さかったが、健康に恵まれ病気知らずの元気な子でした。
中学二年の秋、土曜の午後から腹痛が始まり夕方から9度近くの熱、体を折り曲げるような腹痛と嘔吐が始まった。大学寮でも同じ症状を見たことがあり、99%の確率で虫垂炎だと思った。すぐ近くの外科へ連れて行こうと思ったのに、念のために知り合いでもある掛かり付けの小児科医に電話したのが運の尽きだった。自宅へ帰っていたのに「診ましょう」と言ってくれたので、車で連れて行った。丁寧に診てくれて「これは虫垂炎ではない、ビールスによる腸炎であろう」という診断で痛み止めと、抗生物質を処方箋され、症状が治まらなかったら明日また診ましょうということになった。
翌日になっても腹痛は治まらず又連れて行ったが、どう診てもこれは虫垂炎ではないと言われた。月曜になっても症状が治まらないので、すぐ病院へ行くよう言って、出社した。午前中妻が連れて行ったところ、流石にこれはおかしいと思ったのか、歩いて1分ぐらいの病院へ行くように指示され、娘は妻に抱えられながら歩いて行ったそうである。そして診察した外科医は超激怒し「今まで何をしていたのだ」と怒鳴りつけたそうだ。
重度の腹膜炎の緊急手術と言う連絡が会社にあり、早退して病院へ駆けつけた。手術が終わり、執刀医の説明を受けた。完全にはじけている虫垂を見せて「汚物が腹中に飛び散っていたのを、目に見えたものは取り去ったが、多分まだ残っていると思うので、汚物がダグラス窟(か)という下腹部に溜まってきたところでもう一度手術することなるだろう」という説明を受けた。これで命だけは取り留めたということで一安心したが、まだまだであった。まず9度前後の熱が下がらないまま一週間が過ぎ、また全身麻酔による再手術があった。今度は腹膜炎ではなくダグラス窟膿瘍という病名だった。術後少しずつ元気を取り戻したが、8度前後の熱が下がらず結局退院するまで二ヶ月ぐらいかかってしまった。退院するときに、執刀医から「二度目の手術の時は本当に危なかった、よく体が耐えてくれた」と言われた。そういう説明を受けなかったので、知らぬが仏であった。
そして子供たちの中で学者だった父の血を引いた唯一の子だと思っていたのに、病後全く普通の子になってしまった。
この後、「血液検査すればすぐ分かったのに何処の医者か」と何人からも聞かれたけれど、私たち夫婦が医者の名前を漏らすことはなかった。しかし、残念ながらこの医師による謝罪は一切無かった。
数年後三女が腹痛を起こしたとき、一瞬迷ったが、親友である主治医の内科医に連れて行った。一瞬でも迷ったのが残念だった。
今でも次女には申し訳ない気持ちで一杯である。しかしこの子の試練はこれが終わりではなかった。

その後、短大卒業のあと、東京へ就職し八年ほど前結婚した。子供が出来ず大学病院で不妊治療受け始めたとき、子供が出来た。大事に大事にして週一回は電話をしていた。いよいよ八ヶ月に入り、半月後から産休に入り、当地に帰って来て産む手筈を整えていたある朝、死産したと電話があった。妻がすぐ上京し病室に行くと、家族で一番気丈だった子が「わっ」と抱きついて号泣したそうだ。千人に一人ぐらい起きる、胎児の突然死、解剖しても原因は分からないと言われたそうだ。1.8kgのきれいな男の子だった。
二年後難産の末、無事男の子が生まれた。現在四歳、朝飼っている目高を見て「これとこの目高はきょう死ぬんだよ」と当てたユニークな子である。
そして去年妊娠したという電話の後二ヶ月弱でまた流産した。
今年になって子供が出来たようだがまた流産しそうと電話があった。ハードな仕事なので仕事は絶対に駄目だと言われ、現在病欠中である。そのため流産の危機は去り、おなかの子は順調に育っている。
今まで、妹たちのことに無関心だった長男が「前向きで希望を持って生きるべし」という内容の本を妹に送り、私たち夫婦は、先祖の霊と我が「母上大明神」に今はこの子に集中して守ってくれるようにと、朝晩のお祈りを欠かさない毎日である。
そこで、最初の霊視者に戻る。彼に次女の写真を見せ、妊娠していることを告げて霊視して貰ったが、彼は無理さえしなければ「男の子」が無事生まれると断言した。三日前、おなかの子の性別が分かったのだが、霊視者の予言が当たったかどうかは、来年その子が生まれるまで秘密である。
以上が私以外に起きた家族の出来事である。

この次女が退院して一ヶ月後に父が亡くなった。そしてその年に妻の手術、次の年に母の死亡と続いた。それから長女、長男の事故があった。三女の事故から正に悪夢のような日々が続いたわけである。しかし今振り返れば、よくぞ危機一髪という危機を家族全員が無事に乗り切ることが出来たのは、何かが守ってくれたミステリーではと思っているのである。
さて家族の中でただ独り災難を免れていた私に、神は最後の試練をお与えになりました。いずれ又。

暑いわンワン!

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長崎はお盆にお墓で花火をするのが常識です。ドラゴン花火

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長崎のミルクセーキは匙で食べる

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2008年8月17日 (日)

ミステリー5

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(ごおやあ)

今回は我が一家をおそった神の試練のその走りとなった三女の事故。
今から25年ぐらい前、娘が二歳の頃か、妻の弟の家に行くことになり、勢いよく玄関を飛び出したと思ったら、「ぎゃー」という悲鳴が聞こえた。飛び出すと顔中血だらけ、眉間の真ん中がぱくりと割れて骨が見えている、腰が抜けそうになったが、車で5分ぐらいの病院へ駆けつけた。暫く待たされ外科の医師が来て、これは形成外科のほうが傷が残らないので暫く待ってと言って、何軒か電話したが土曜日の午後である、どこも居ない。「しょうがない、専門ではないが自分がやりましょう」ということになった。妻は見ていることが出来ないというので、私と看護婦で泣き叫ぶ娘を押さえつけて傷を縫って貰った。傷は縦に3cmぐらいだった。「女の子だから、傷が目立たないように縫いますからね」と言ってくれたものの眉間の真ん中にはっきりと目立つ傷が残った。
原因は、割れていた植木鉢に、転んで顔をぶちあてたという分けだった。しかし不幸中の幸いといえるのは、もう2cm左右どちらかにずれていたら、眼球にもろに当たったわけだから片目失明か、眼球摘出になったかもしれなかった。正に不幸中の幸いだったといえる。私の父母共に健在の時だったから、祖先の霊が助けてくれたのかもしれない。
成長するにつれて傷は薄くなり、傷をからかわれることもなく、大人になり今年中に結婚の予定である。
次は長女。
このときは私の父母はもう亡くなっていたが、友達の彼氏の車に4人同乗していたところ、暴走運転で車がひっくり返り、、5人乗っていた中で長女のみが足首から先を複雑骨折して、2ヶ月あまりの入院となった。同乗の4人は皆無事という結果だった。
幸いにも、人もはねず、激突もせず、自損のみというこれまた不幸中の幸いだった。
この娘は親離れが早く、その点さんざん苦労をさせられたが、私が頭の手術をするときはもう駄目だと思ったのか、電話で泣いてくれた。今は娘と二人暮らしをしてるが、私たち夫婦の老後は自分が面倒見ると言ってくれている。
これだけであれば、この程度の事故は珍しくもないと言えるかもしれないが、我が一家に起こった出来事の中で考えると、やはり何かミステリーを感じるのである。
次回は次女の話。

2008年8月13日 (水)

ミステリー4

前回で息子の事故を私の母が守ったいう話をしましたが、次は妻と娘たちに起きた病気と事故の話です。ミステリーとはもう関係ありません。
まず妻の話
妻は20年ほど前、腎臓癌で片方の腎臓の摘出手術を受けました。もう二十年経ちましたが今や家族で一番元気です。自覚症状など全くなく健診など受けたことがなかったのに、なぜ癌が見つかったか?
私は放影研(放射線影響研究所)で二年に一度検査を受けている。放射線の影響を調べるとなっているが、目的は被爆者の事後推移の調査研究である。だから検査するだけで治療はしない。
父は「人をモルモット扱いにして馬鹿にするな」と検査を絶対に受けなかった。私は会社の健診では受けられない検査があるのでまあいいかと受けることにしていた。これが幸いしました。

20年ぐらい前予算が余っていたのか、家族健診を受けませんかと案内が来たので、健診など受けたことがなかった妻が受診することになった。そして検査予定になかった腹部エコー検査を担当の検査技師がどういう風の吹き回しか、ちょっと「受けて見ますか」と言いったので「ではお願いします」と受けたところが腎臓に異常が見つかり、一般病院での精密検査の結果、腎細胞癌と分かり、即摘出手術となった。術後、周りに転移は無かったという説明を受けたので、主治医に「早期発見だと言うことで本人に告知して下さい」と言ったところ、主治医は「これは早期発見ではない、だから告知は出来ない」と言った。
そしてまだ効くかどうかよく分からなかったインターフェロンの投与が効いたのか妻は少しずつ元気になっていきました。

三ヶ月近くの入院生活で顔見知りになった患者さんたちが、退院後次々と亡くなって行くなかで、妻だけが生き延びました。5年後に代わった主治医から癌告知をされましたが、「あなた、よくだましてくれたね」で終わりました。放影研検査技師の「受けてみますか」という気まぐれな言葉が無かったら現在の妻はあり得なかった。何があの検査技師に「受けてみませんか」と言わせたのか、私にとってこれがミステリーなのである。
妻の病気は、母が亡くなる一年前の出来事だったが、母が亡くなって手帳を見ていたら、「嫁が可哀相、私が代わってやりたい」と書いてありました。
私が脳腫瘍から退院して一ヶ月ほど自宅静養したとき、無事退院できたお礼もかねてと、今までやったことがなかった、仏壇のお花の水替えと、お水を上げることを始めました。すると妻から「お水は駄目よ、おばあちゃんはお茶を好きだったから、お茶を上げて」と言われ、やっぱり妻も母が守ってくれたのかなと思ったことでした。
次回は長女と三女の話です。

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2008年8月 5日 (火)

ミステリー3

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(縦にはわせた西瓜)

息子の起きたある不思議な話。
私の長男は高校時代は剣道でインターハイ優勝を本気でねらう強豪高のレギュラーになり、将来は体育教師を夢見てある体育系大学へ進学しました。四段も取ったのだが、一年の時にアキレス腱を切り、回復が思わしくなく三年で退学してしまった。家に帰ってきて、250ccのスポーツタイプの中古バイクを買い、趣味と実益を兼ねてかバイク宅配便のアルバイトをしていた。高速道を通って北九州、熊本まで行くのも日常だった。その内に私の友人の紹介である小さな個人会社に就職できた。しかしバイクの味が忘れられず日曜日にはツーリングをよく楽しんでいた。
ある日曜日の朝、会社の仕事を通じて知り合った友人と、バイクを買った店のマスターと三人でツーリングに行くと朝7時過ぎに出かけた。暫くすると近くの病院から電話があり、「息子さんが事故を起こして入院した」と連絡があった。びっくり仰天して、妻とすぐ病院へ駆けつけた。暫くすると息子が「すまん、すまん」と言いながら診察室から歩いて出てきた。命に別状はなかったと、一安心した。医師の説明では全身打撲と左腕を骨折しているので一ヶ月ぐらい入院が必要という説明を受けた。病室へ行き事故の詳細を聞いた。
息子は横断歩道の青信号から右折して軌道敷がある片道二車線の国道を直進していた。息子言うには並行車もなく、日曜の朝で車も少ないし、制限速度40kmで走るわけがない、少なくとも80kmで走っていただろうという。最初の市道との交差点が青信号だったのでスピードを落とすこともなく直進すると、軌道敷内に入ってきた右折車が突然飛び出して、目の前で急ブレーキを掛け停止した。息子も急ブレーキを掛けたため、バイクの前輪がロックし、息子はそのまま十数メートル空中滑走をして頭から滑り込むような形で道路に激突した。ヘルメットに乗用車のトランクのペイントがついていたので道路に並行する形ですっ飛んでいったようだ。そしてバイクは前輪がロックしたため一回転して後輪が車のトランクにそのままずぼっとめり込んでいたそうだ。
乗用車を運転していたのは免許取り立てのまだ二十一、二才の女性、車を買って友人三人を乗せての初ドライブだった。右折先のガソリンスタンドで給油しようと思ったのであろう。ベテランでもバイクのスピードを読み切るのは難しい。まして免許取り立てである、左だけを見て、いけると思って飛び出したところ、横断歩道に歩行者が居たためブレーキを掛けたというわけだ。目撃していたタクシーの運転手が息子は完全に死んだと思ったと警察に証言したそうだ。結果は、左腕の骨折と全身打撲、一ヶ月ちょっとの入院で後遺症もなく無事退院できた。
ヘルメットはフルフェイスの最強級のものを付けていたし(ヘルメットは割れていた)、レーシング用の肘当て、膝当てを付けていたのも幸いしたようだ。しかし冷静に考えてみると、奇跡と言う以外あり得ない幸運に恵まれたことが分かる。車がもう30cm手前で停止していたら、バイクの後輪は後部座席に飛び込み、後部座席に二人乗っていたから、一人は即死、右側の者もどうなったか分からない。息子も頭から車に激突、最悪の場合は、若い二十代の男女三人が死亡するという大惨事になる可能性があった。僅か0.0何秒の差で奇跡的に最悪の事態を免れたことになった。警察の調べではバイクにスリップの跡が無いためほぼ制限速度で走っていたと認められ、乗用車が9割非があるということになったらしい。乗用車を運転していた若い女性は、謝るでもなく、「ああ、車を買ったばかりなのに、どうしよう、どうしよう」と座り込んでつぶやいていたそうだ。

翌日仕事が終わって、息子の病室へ行くと、暫くして昨日ツーリングに行く予定だった、バイク屋のマスターが見舞いにやってきた。
しばらく雑談していたが、マスターが急に真顔になり、次のような話をした。
「A君(息子)俺、昨日の夜夢を見たとさ(見たんだ)。A君が事故を起こしたと君の家に教えに行ったら、優しそうなおばあちゃんが出てきて、あの子は私が守っているから大丈夫です。と言いなったとさ(言われた)」と言った。
これを聞いた息子が「えー」と息をのみ、身をただして、これまた真顔で、
「Sさん(バイク屋のマスター)そんげん(そんな)作り話をせんでくださいよ(しないでください)」というと、Sさんは
「なんば言うとね(何を言うのか)、俺がなんで作り話をせんばいかんとね(しないといけないのか)、俺は君の家が何処にあるかも知らん(しらない)し、君の家に誰が住んでいるかも知らんよ」と言った。
息子は暫くの間、ぽかんとして絶句、また絶句。そして「へーそうですか」で話は終わった。聞いていた私もしばらくの間、口をあんぐりと開けたままでいた。
私は息子が一歳の時に、父母と同居を始め、食事も常に一緒だった。私の母は色白で新潟美人と言われ、意地悪ばあさんでは決してなかった。
母はこのとき亡くなって三年ぐらい経っていたと思う。私の家に年寄りは父と母しか住んでいなかったので、このおばあちゃんは母以外あり得ない。つまり赤の他人の夢の中に、私の母が現れてお前の息子を守ってやったよ。と教えてくれたことになる。

一ヶ月と少し入院して無事退院した息子は、私に輪を掛けた無信心だったが(私が仏壇にお参りするようになったのは五十近くになってから)、帰ってきたその日から、壁に掛かっている祖父母の遺影に手を合わせ、祖父母の位牌がある仏壇に線香を上げ、毎日お祈りするのが日課になった。これは十五年近く経った現在も続けられている。
この後から息子は、よく当たるという占い師に見て貰った。とか福岡でよく当たる霊視者に見て貰った、という話をするようになった。ちょっと違うのではと思うのだが相談して行くわけではないので、いかんともしがたい。かようなわけがあり私が霊視者と懇談する機会を得たというわけである。
まだ続く。

ひょうたん

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2008年8月 3日 (日)

ミステリー2

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(ペンタス)

父は20年ぐらい前87歳で亡くなった。健康に恵まれ75歳まで病気らしい病気に罹ったことがなかった。そして75歳の四月のある日、黄疸が現れ安静にしていても回復することなく顔が真っ黄色になってしまった。本人は痛くもかゆくもないから入院するときは軽い気持ちで入院したが、医者の診断は、胆管の周りに出来た癌が胆管を圧迫したためであり、年内もてればという診断だった。
十数時間に及ぶ大手術で胃の三分の二、十二指腸の一部から胆嚢まで切り取る大手術だった。術前余命何ヶ月という説明だったにもかかわらず、術後の説明は意外なものだった。癌が胆管を押しつぶしたという診断だっが、実際は胆管の一番細いところに、小豆大の癌が出来ていたため、黄疸が出たということだった。医師は興奮していて、「現代医学(三十数年前)では小豆大の癌を見つけることは到底不可能である。これは学会に報告されるだろう」という話をした。この後父は癌の再発もなく十三年ほど生き伸びることが出来た。今冷静に考えれば過剰医療の最たるものといえるかもしれないが、家族としてはうまくいったと感謝するばかりであった。

術後、病棟に戻っても数日意識が戻らなかったが、徐々に意識は戻ってきた。その頃は
付き添いはOKだったので、付き添いと家族の手の空いたものが泊まる日々だった。
個室が開いてなく、相部屋だったが、不便この上もない。相手も迷惑だし、父のいびきがひどく、苦情がでる始末だった。個室が開いたら是非とお願いしていた。私は、土、日休日だったので、金曜の夜はだいたい泊まることにしていた。ある金曜日の深夜に主治医から、「ちょっと来てください」と呼び出され、「今個室の患者が亡くなりました。どうしますか」と聞かれたから、二つ返事でお願いします。と申し込みをした。
翌日11時頃、個室に移ることが出来、家族一同やれやれ一安心ということになった。
そして個室に移って三日目ぐらいの夜、会社帰り病室に行くと、父が真剣な顔をして「おいこの部屋は何かおかしい。ミステリーがある。部屋を替えてくれ」と言った。
父には個室の人が亡くなったからと、言うわけがない。無事退院され部屋が開いたと言ってあった。個室の人が亡くなった夜、まだ二十代の男性が、「今父が亡くなりました」と電話をしていたので、多分亡くなった方は五十代だったと思われる。まだこの世に未練があったはずである。私は一瞬ぎょとなったが、何とかごまかして帰ったが、翌日も部屋を替わりたいという。家族総掛かりで、気のせい、気のせいで押し切った。一週間過ぎたぐらいから、ミステリーは終わったのか何も言わなくなった。今思えばミステリーの正体を聞き出せば良かったという思いがあるが、そのときはまだ本当に助かるかどうかさえ分からないときに、幽霊でもでたのかと聞ける状態ではなかった。その後父は約半年間飲み食いが出来ず、70kgの体重が38kgまで減り、気管支切開を受けるなどの闘病が続いたので、このミステリーを語る余裕は無かったし、多分忘れてしまったと思う。また私が聞くこともなかったし、聞かなくて良かったと思う。もし見知らぬ男が自分をじっと見つめていたなどと言われたら、霊の存在を信じざるを得ないではないか。結局父のミステリーはミステリーのままで終わってしまった。その後父がミステリーについて語ることは二度と無かった。これだけの話であるが、霊の存在など全く信じない人だっただけに、世の中には何か摩訶不思議ことがあるものだと思ったのである。
次回は息子に起きたある不思議な話。

2008年8月 1日 (金)

ミステリー

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先だって霊視者(霊が見える人)という人と1時間ほど親しく懇談する機会を得ました。
息子がこの霊視者に自分の将来を見て貰い、なるほどという御宣託を得てのつきあいらしいが、別に特別な人という違和感は全くなかった。
まあ私が霊視者を信じる信じないは最後に述べる。
元来私は占いとか霊能者とか全く信じていなかった。それは経済学者だった父の影響が
多いにある。父は私に輪をかけた霊能、占い嫌いだった。
話は逸れるが私が少年時代、葬儀社で必ず「浄めの塩」が配られた時代に、葬式から帰ってきた父に、母が当然のように塩を振りかけた時、「何をするか!葬式は不浄なものではない」と父は怒った。これ以来葬式は「不浄なものではない」という意識が染みついている。今でも霊柩車に出会うと縁起が悪いと思う人がいるが、とんでもない話である。与えられた人生の終焉を終えた人に心から敬意を表すのがエチケットである。いずれ自分自身に起きることである。葬式が縁起が悪いと思うのは自分自身を卑しめる行為である。
父は私が物心ついたときから毎朝仏壇でお経を唱えていた。しかし父の宗教観は、神仏を敬い神仏に頼らずだったと思う。神様や仏様が自分を助けてくれるのではない。自分が心を無にして仏に手を合わせることによって自分が正しい道を選ぶことが出来るという考えだった。父は自分の母が眠るお墓参りは欠かさなかったがだ、大病を患った後は、かなり急な階段を登るために転んで怪我でもしたらかえっておばあちゃんが悲しむとかいって、墓参りは一切しなくなった。こういう父だったが、私に毎朝拝むことを強要することは一切なかった。ある法事で父が「私が死ねばこの子も朝拝んでくれるのでしょうね」と法事のお坊さんと話をして居た記憶がある。現在私は朝晩必ず般若心経と舎利礼文を唱えているが、これは父が亡くなる一年ぐらい前から始めたので、まあささやかな親孝行をしたと思っている。
こんな祖父や父親に育てられた息子(一歳の時から祖父、祖母と一緒に暮らし始めた)は、占いなどに興味はなかったはずなのに、今や占いや霊視者を信じるようになってしまった。しかしそれにはある出来事があったからである。
その前に科学的根拠がないものは全く信じなかった父に起こったあるミステリーを紹介します。
次回へ続く。