病気

2012年2月19日 (日)

心臓バイパス手術の思い出あれこれ[一]

2月18日、天皇陛下が心臓バイパス手術を受けられ手術は無事成功され予後も良好という記者会見があった。小生、恐れ多くも陛下の同病者として心底からお喜びを申し上げる次第であります。
もう十年前になるが64歳の時、陛下と同じ二月、私も心臓バイパス手術を受けた。症状から見ると私の方が陛下より重症であった。光晴会病院の循環器外科部長はカテーテル検査のビデオを見て『左冠動脈の大本に当たる一番太いところに狭窄があり、ここは「バルーン」及び「ステント」治療も出来ない、バイパス手術をしないと、半年の命です』と宣言された。
「わかりました、手術をお願いします」と即座に答えた。すると彼は私のカルテをしげしげと見ながら「あなたは病気のベテランだから大丈夫です」と妙な保証をしてくれた。

さて話はその一年前に遡る。つまり十一年前の話である。五十になってから毎年人間ドックで検査を受けていたが、二十代から高血圧が続いていたしで、心臓肥大はかなり前から指摘されていた。心電図では異常は出ないものの、「負荷心電図」(ベルトの上を走りながら心電図を撮る)や「心筋シンチ」検査では異常がはっきり出ていたので、検査を受けていた「I病院」のI先生から「心臓カテーテル検査」を受けなさいと言われていたのである。しかし心臓に管を入れて造影検査、そんな怖ろしい事が、と逡巡している状態だった。そして一月も終わりに近いある日、山の中腹にある友人S氏の所へパソコンの具合を見るために出掛けた。だらだら坂を15分ぐらい登ったところで、胸痛と息苦しさで動けなくなった。5分ぐらい休むと息苦しさが収まったので、そろそろ歩きだし無事友人宅へ到着。帰りは緩やかな下り坂なので何事もなく家に帰り着いた。

しかしこれは只事ではないと思い、翌日I先生に「昨日歩けなくなった。カテーテル検査を受けたい」と申し出た。I医師はすぐ携帯で光晴会循環器内科部長のI医師にカテーテル検査を申し込まれ、翌週の月曜に入院検査することがその場で決まった。
三日後の月曜日、午前中にI医師の診察を受け、午後からカテーテル検査を受けた。右肘から動脈にカテーテル入れ造影剤を注入しビデオに撮る。簡単そうだが結構大変である。造影剤が注入されると体が「かー」と熱くなり「うー」と息が止まりそうになる。それが30分ぐらい続くから結構応える。夕方7時頃I医師からパソコンのビデオ画像を見ながら検査説明を受けた。造影剤が黒く映り血液の流れがよくわかる。
『これは重度の狭心症である。こんなにひどいとは思わなかった。三本の冠動脈に十箇所ぐらいの狭窄があり、99%狭窄しているところもある。これはもう「バルーン」や「ステント」治療では対応できないので、「ローターブレーター(1分間に20万回転するブラシで石灰化している狭窄部分を削り取る)」を使うしかない。長崎県には「ローターブレーター」はないので、自分が指導を受けた延吉先生という名医がいる「小倉記念病院」でその治療を受けて欲しい』と言われた。

翌日帰宅、まず主治医に経過を報告して、長男には「葬式は最低のランク、親戚以外誰も連絡しなくて良い」ということを言い、私名義の現預金、固定資産(時価数十億と言いたいところだが実際はささやかである)全て妻にという遺言状に実印を押し妻に渡した。
これで思い残すことはない。翌日長男が車で(嫁と孫二人も同乗)病院まで送ってくれた。車の中で4才の孫に「おじいちゃんはね、「ぴーぽー」と救急車で福岡まで行くんだよ、かっこいいだろう」というと4才の男の子は真顔で「おじいちゃん、そんなことはね、かっこいいと言わないんだよ」と言った。「うーん」幼児でも分かるのかと「がく」ときたものだった。このかわいい孫も今年高校受験である。

翌日I医師に「お願いします」と言った。「あなたは何時心筋梗塞が起きてもおかしくない状態なので、駅の階段を上り下りするのはとんでもないことである。だから明日当院の救急車で小倉記念病院まで看護婦付添いで搬送します」と言われた。データーはもう小倉記念病院にに転送しているから、検査無しで明後日には治療(循環器内科だから手術とは言わない)されるだろういうことだった。

翌日、救急車には妻と親戚以上のお付き合いをして頂いている主治医の奥さんと、まだ若い可愛らしい看護婦(当時はまだ看護師ではなく看護婦)が同乗した。私は、彼女が「大丈夫ですよ、しっかりして」と私の手をずっと握ってくれるものと期待したが、前日夜勤だった彼女は半分ぐらいは腕組んでうとうとしていた。さて仰臥して、「ぴーぽー」と出発したが、ベッドが硬く思いの外振動が激しい、体ががくがく飛び上がるような衝撃がある。これでは血管が破裂するぞと思い、途中で起き上がり腰掛けたが寝ているより楽であった。一般道路は回転灯を回して走行、長崎人はマナーがよく救急車を追い越すような不届きな車はいなかった。高速は130キロで走行、一時間40分ぐらいで「小倉記念病院」に到着した。大学病院より大きいのにびっくり。入院手続きをしてくれたT看護婦にお礼を言って別れ、6人部屋の病室に案内された。

長崎から救急車で来たのである、病室では俺が一番重症だと思っていたら、6人の内4人が心筋梗塞で倒れ救急車で搬送されたという。病室では一番重症者がでかい顔が出来る。夕方には皆と仲良くなりお互いの病状を語り合う。「俺は電気ショックを二回受けた」と言った九大病院から来た男が「ははあ、恐れ入りました」ということでナンバーワンの地位を占めた。しかし何と一番下っ端の私が三日目には、ナンバーワンの地位についたのであるが、この話は次回で。

2009年1月 7日 (水)

羊水塞栓症(ようすいそくせんしょう)?

31日に男の子を出産した娘、一時母子共に危なかったという知らせがあり、何かの感染症に罹っていると聞かされてはいたけど、5日、ICUから一般病棟に移り、6日に主治医から説明があったと娘から電話があった。病名はインフルエンザとは全く関係がなく「家庭医学大全科」にも乗っていない「羊水塞栓症(羊水は母体のものと思っていたが実際は胎児のものであり、その羊水が分娩中の母体の血液に入ると、希にアレルギー症状を起こすのが原因らしい)」ではないかという話である。グーグルで検索した所、数万例に一人という珍しい難病、奇病で、致死率80%、つまり10人の内8人は死ぬという難病。分娩中か分娩後に発症するから事前に発症を予測することは不可能と書いてある。主治医の説明では「どうして助かったのかが分からない、奇跡です」と言われたそうだ。教授会でも討議され、これは「羊水塞栓症」の疑い大と診断され、この病気を研究している H 医科 大の教授に全データを紹介したいと言われ勿論承諾したということだった。医者がどうして助かったか分からないというのだから、娘の自然治癒力が異常に強かったという以外無いのだが、病気のベテランと言われている私も検索記事を読んで腰が抜けそうになりました。この娘は私が心臓バイパス手術をする時に「お父さんは強運の持ち主だし、何かに守られているから私は心配しないからね」と言ってくれたのだが、多分この娘も何かに守られていたのだろう。妻はすぐにお墓参りに行き、私も今週中に行くつもりでいる。助けてくれるのなら、私の両親しかいないから。娘は土曜か日曜には退院できそうである。まだ元気がない赤ん坊もミルクを飲めるようになったし、毎日見ている看護師の話では、多分大丈夫(脳に障害はない)と言っているそうだ。しかしまだ当分は保育器の中らしい。あと精密検査をパスすると、「終わりよければすべてよし」となるのだが?今度ばかりは寿命が縮まった気がします。