ミステリー5

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(ごおやあ)

今回は我が一家をおそった神の試練のその走りとなった三女の事故。
今から25年ぐらい前、娘が二歳の頃か、妻の弟の家に行くことになり、勢いよく玄関を飛び出したと思ったら、「ぎゃー」という悲鳴が聞こえた。飛び出すと顔中血だらけ、眉間の真ん中がぱくりと割れて骨が見えている、腰が抜けそうになったが、車で5分ぐらいの病院へ駆けつけた。暫く待たされ外科の医師が来て、これは形成外科のほうが傷が残らないので暫く待ってと言って、何軒か電話したが土曜日の午後である、どこも居ない。「しょうがない、専門ではないが自分がやりましょう」ということになった。妻は見ていることが出来ないというので、私と看護婦で泣き叫ぶ娘を押さえつけて傷を縫って貰った。傷は縦に3cmぐらいだった。「女の子だから、傷が目立たないように縫いますからね」と言ってくれたものの眉間の真ん中にはっきりと目立つ傷が残った。
原因は、割れていた植木鉢に、転んで顔をぶちあてたという分けだった。しかし不幸中の幸いといえるのは、もう2cm左右どちらかにずれていたら、眼球にもろに当たったわけだから片目失明か、眼球摘出になったかもしれなかった。正に不幸中の幸いだったといえる。私の父母共に健在の時だったから、祖先の霊が助けてくれたのかもしれない。
成長するにつれて傷は薄くなり、傷をからかわれることもなく、大人になり今年中に結婚の予定である。
次は長女。
このときは私の父母はもう亡くなっていたが、友達の彼氏の車に4人同乗していたところ、暴走運転で車がひっくり返り、、5人乗っていた中で長女のみが足首から先を複雑骨折して、2ヶ月あまりの入院となった。同乗の4人は皆無事という結果だった。
幸いにも、人もはねず、激突もせず、自損のみというこれまた不幸中の幸いだった。
この娘は親離れが早く、その点さんざん苦労をさせられたが、私が頭の手術をするときはもう駄目だと思ったのか、電話で泣いてくれた。今は娘と二人暮らしをしてるが、私たち夫婦の老後は自分が面倒見ると言ってくれている。
これだけであれば、この程度の事故は珍しくもないと言えるかもしれないが、我が一家に起こった出来事の中で考えると、やはり何かミステリーを感じるのである。
次回は次女の話。

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ミステリー4

前回で息子の事故を私の母が守ったいう話をしましたが、次は妻と娘たちに起きた病気と事故の話です。ミステリーとはもう関係ありません。
まず妻の話
妻は20年ほど前、腎臓癌で片方の腎臓の摘出手術を受けました。もう二十年経ちましたが今や家族で一番元気です。自覚症状など全くなく健診など受けたことがなかったのに、なぜ癌が見つかったか?
私は放影研(放射線影響研究所)で二年に一度検査を受けている。放射線の影響を調べるとなっているが、目的は被爆者の事後推移の調査研究である。だから検査するだけで治療はしない。
父は「人をモルモット扱いにして馬鹿にするな」と検査を絶対に受けなかった。私は会社の健診では受けられない検査があるのでまあいいかと受けることにしていた。これが幸いしました。

20年ぐらい前予算が余っていたのか、家族健診を受けませんかと案内が来たので、健診など受けたことがなかった妻が受診することになった。そして検査予定になかった腹部エコー検査を担当の検査技師がどういう風の吹き回しか、ちょっと「受けて見ますか」と言いったので「ではお願いします」と受けたところが腎臓に異常が見つかり、一般病院での精密検査の結果、腎細胞癌と分かり、即摘出手術となった。術後、周りに転移は無かったという説明を受けたので、主治医に「早期発見だと言うことで本人に告知して下さい」と言ったところ、主治医は「これは早期発見ではない、だから告知は出来ない」と言った。
そしてまだ効くかどうかよく分からなかったインターフェロンの投与が効いたのか妻は少しずつ元気になっていきました。

三ヶ月近くの入院生活で顔見知りになった患者さんたちが、退院後次々と亡くなって行くなかで、妻だけが生き延びました。5年後に代わった主治医から癌告知をされましたが、「あなた、よくだましてくれたね」で終わりました。放影研検査技師の「受けてみますか」という気まぐれな言葉が無かったら現在の妻はあり得なかった。何があの検査技師に「受けてみませんか」と言わせたのか、私にとってこれがミステリーなのである。
妻の病気は、母が亡くなる一年前の出来事だったが、母が亡くなって手帳を見ていたら、「嫁が可哀相、私が代わってやりたい」と書いてありました。
私が脳腫瘍から退院して一ヶ月ほど自宅静養したとき、無事退院できたお礼もかねてと、今までやったことがなかった、仏壇のお花の水替えと、お水を上げることを始めました。すると妻から「お水は駄目よ、おばあちゃんはお茶を好きだったから、お茶を上げて」と言われ、やっぱり妻も母が守ってくれたのかなと思ったことでした。
次回は長女と三女の話です。

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長崎原爆の日

きょう長崎は63回目の原爆の日を迎えました。
63年前と同じ薄曇りの天気でした。
きょうは原爆犠牲者の方々への鎮魂の日であると共に、核兵器廃絶を心から訴える日でもあります。
被爆者の平均年齢は75才になり、生存する被爆者も約23万人となりました。
被爆者の一人として私もこれから何が出来るのか自分自身が問われるところです。
また世界で26000発あるという核兵器はまだ一発も廃棄されることもなく核兵器廃絶の道は遙か彼方にあります。
これは核兵器保有国の中から核廃絶の声が全く上がらないことが原因にあると思います。これには核保有国の人々が被爆の実態を全く知らないという現実があるのではないでしょうか。
これからは核兵器保有国の人々に、被爆の具体的な実態を如何に知らしめるかが、これからの核兵器廃絶運動の一つの道筋だと云えるかもしれません。
私のささやかなブログがリンクしている、被爆者の生の声が聞かれる「被爆者の声」は、英語版が完成し公開されています。今後は中国語、ロシア語、フランス語などの翻訳が目標になると思います。そしてこの「被爆者の声」がインターネットを通して世界の人たちにより多く聞かれることにより、核兵器廃絶へのささやかな希望が生まれるのではと思っている次第です。

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ミステリー3

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(縦にはわせた西瓜)

息子の起きたある不思議な話。
私の長男は高校時代は剣道でインターハイ優勝を本気でねらう強豪高のレギュラーになり、将来は体育教師を夢見てある体育系大学へ進学しました。四段も取ったのだが、一年の時にアキレス腱を切り、回復が思わしくなく三年で退学してしまった。家に帰ってきて、250ccのスポーツタイプの中古バイクを買い、趣味と実益を兼ねてかバイク宅配便のアルバイトをしていた。高速道を通って北九州、熊本まで行くのも日常だった。その内に私の友人の紹介である小さな個人会社に就職できた。しかしバイクの味が忘れられず日曜日にはツーリングをよく楽しんでいた。
ある日曜日の朝、会社の仕事を通じて知り合った友人と、バイクを買った店のマスターと三人でツーリングに行くと朝7時過ぎに出かけた。暫くすると近くの病院から電話があり、「息子さんが事故を起こして入院した」と連絡があった。びっくり仰天して、妻とすぐ病院へ駆けつけた。暫くすると息子が「すまん、すまん」と言いながら診察室から歩いて出てきた。命に別状はなかったと、一安心した。医師の説明では全身打撲と左腕を骨折しているので一ヶ月ぐらい入院が必要という説明を受けた。病室へ行き事故の詳細を聞いた。
息子は横断歩道の青信号から右折して軌道敷がある片道二車線の国道を直進していた。息子言うには並行車もなく、日曜の朝で車も少ないし、制限速度40kmで走るわけがない、少なくとも80kmで走っていただろうという。最初の市道との交差点が青信号だったのでスピードを落とすこともなく直進すると、軌道敷内に入ってきた右折車が突然飛び出して、目の前で急ブレーキを掛け停止した。息子も急ブレーキを掛けたため、バイクの前輪がロックし、息子はそのまま十数メートル空中滑走をして頭から滑り込むような形で道路に激突した。ヘルメットに乗用車のトランクのペイントがついていたので道路に並行する形ですっ飛んでいったようだ。そしてバイクは前輪がロックしたため一回転して後輪が車のトランクにそのままずぼっとめり込んでいたそうだ。
乗用車を運転していたのは免許取り立てのまだ二十一、二才の女性、車を買って友人三人を乗せての初ドライブだった。右折先のガソリンスタンドで給油しようと思ったのであろう。ベテランでもバイクのスピードを読み切るのは難しい。まして免許取り立てである、左だけを見て、いけると思って飛び出したところ、横断歩道に歩行者が居たためブレーキを掛けたというわけだ。目撃していたタクシーの運転手が息子は完全に死んだと思ったと警察に証言したそうだ。結果は、左腕の骨折と全身打撲、一ヶ月ちょっとの入院で後遺症もなく無事退院できた。
ヘルメットはフルフェイスの最強級のものを付けていたし(ヘルメットは割れていた)、レーシング用の肘当て、膝当てを付けていたのも幸いしたようだ。しかし冷静に考えてみると、奇跡と言う以外あり得ない幸運に恵まれたことが分かる。車がもう30cm手前で停止していたら、バイクの後輪は後部座席に飛び込み、後部座席に二人乗っていたから、一人は即死、右側の者もどうなったか分からない。息子も頭から車に激突、最悪の場合は、若い二十代の男女三人が死亡するという大惨事になる可能性があった。僅か0.0何秒の差で奇跡的に最悪の事態を免れたことになった。警察の調べではバイクにスリップの跡が無いためほぼ制限速度で走っていたと認められ、乗用車が9割非があるということになったらしい。乗用車を運転していた若い女性は、謝るでもなく、「ああ、車を買ったばかりなのに、どうしよう、どうしよう」と座り込んでつぶやいていたそうだ。

翌日仕事が終わって、息子の病室へ行くと、暫くして昨日ツーリングに行く予定だった、バイク屋のマスターが見舞いにやってきた。
しばらく雑談していたが、マスターが急に真顔になり、次のような話をした。
「A君(息子)俺、昨日の夜夢を見たとさ(見たんだ)。A君が事故を起こしたと君の家に教えに行ったら、優しそうなおばあちゃんが出てきて、あの子は私が守っているから大丈夫です。と言いなったとさ(言われた)」と言った。
これを聞いた息子が「えー」と息をのみ、身をただして、これまた真顔で、
「Sさん(バイク屋のマスター)そんげん(そんな)作り話をせんでくださいよ(しないでください)」というと、Sさんは
「なんば言うとね(何を言うのか)、俺がなんで作り話をせんばいかんとね(しないといけないのか)、俺は君の家が何処にあるかも知らん(しらない)し、君の家に誰が住んでいるかも知らんよ」と言った。
息子は暫くの間、ぽかんとして絶句、また絶句。そして「へーそうですか」で話は終わった。聞いていた私もしばらくの間、口をあんぐりと開けたままでいた。
私は息子が一歳の時に、父母と同居を始め、食事も常に一緒だった。私の母は色白で新潟美人と言われ、意地悪ばあさんでは決してなかった。
母はこのとき亡くなって三年ぐらい経っていたと思う。私の家に年寄りは父と母しか住んでいなかったので、このおばあちゃんは母以外あり得ない。つまり赤の他人の夢の中に、私の母が現れてお前の息子を守ってやったよ。と教えてくれたことになる。

一ヶ月と少し入院して無事退院した息子は、私に輪を掛けた無信心だったが(私が仏壇にお参りするようになったのは五十近くになってから)、帰ってきたその日から、壁に掛かっている祖父母の遺影に手を合わせ、祖父母の位牌がある仏壇に線香を上げ、毎日お祈りするのが日課になった。これは十五年近く経った現在も続けられている。
この後から息子は、よく当たるという占い師に見て貰った。とか福岡でよく当たる霊視者に見て貰った、という話をするようになった。ちょっと違うのではと思うのだが相談して行くわけではないので、いかんともしがたい。かようなわけがあり私が霊視者と懇談する機会を得たというわけである。
まだ続く。

ひょうたん

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ミステリー2

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(アイスダイヤモンド)

父は20年ぐらい前87歳で亡くなった。健康に恵まれ75歳まで病気らしい病気に罹ったことがなかった。そして75歳の四月のある日、黄疸が現れ安静にしていても回復することなく顔が真っ黄色になってしまった。本人は痛くもかゆくもないから入院するときは軽い気持ちで入院したが、医者の診断は、胆管の周りに出来た癌が胆管を圧迫したためであり、年内もてればという診断だった。
十数時間に及ぶ大手術で胃の三分の二、十二指腸の一部から胆嚢まで切り取る大手術だった。術前余命何ヶ月という説明だったにもかかわらず、術後の説明は意外なものだった。癌が胆管を押しつぶしたという診断だっが、実際は胆管の一番細いところに、小豆大の癌が出来ていたため、黄疸が出たということだった。医師は興奮していて、「現代医学(三十数年前)では小豆大の癌を見つけることは到底不可能である。これは学会に報告されるだろう」という話をした。この後父は癌の再発もなく十三年ほど生き伸びることが出来た。今冷静に考えれば過剰医療の最たるものといえるかもしれないが、家族としてはうまくいったと感謝するばかりであった。

術後、病棟に戻っても数日意識が戻らなかったが、徐々に意識は戻ってきた。その頃は
付き添いはOKだったので、付き添いと家族の手の空いたものが泊まる日々だった。
個室が開いてなく、相部屋だったが、不便この上もない。相手も迷惑だし、父のいびきがひどく、苦情がでる始末だった。個室が開いたら是非とお願いしていた。私は、土、日休日だったので、金曜の夜はだいたい泊まることにしていた。ある金曜日の深夜に主治医から、「ちょっと来てください」と呼び出され、「今個室の患者が亡くなりました。どうしますか」と聞かれたから、二つ返事でお願いします。と申し込みをした。
翌日11時頃、個室に移ることが出来、家族一同やれやれ一安心ということになった。
そして個室に移って三日目ぐらいの夜、会社帰り病室に行くと、父が真剣な顔をして「おいこの部屋は何かおかしい。ミステリーがある。部屋を替えてくれ」と言った。
父には個室の人が亡くなったからと、言うわけがない。無事退院され部屋が開いたと言ってあった。個室の人が亡くなった夜、まだ二十代の男性が、「今父が亡くなりました」と電話をしていたので、多分亡くなった方は五十代だったと思われる。まだこの世に未練があったはずである。私は一瞬ぎょとなったが、何とかごまかして帰ったが、翌日も部屋を替わりたいという。家族総掛かりで、気のせい、気のせいで押し切った。一週間過ぎたぐらいから、ミステリーは終わったのか何も言わなくなった。今思えばミステリーの正体を聞き出せば良かったという思いがあるが、そのときはまだ本当に助かるかどうかさえ分からないときに、幽霊でもでたのかと聞ける状態ではなかった。その後父は約半年間飲み食いが出来ず、70kgの体重が38kgまで減り、気管支切開を受けるなどの闘病が続いたので、このミステリーを語る余裕は無かったし、多分忘れてしまったと思う。また私が聞くこともなかったし、聞かなくて良かったと思う。もし見知らぬ男が自分をじっと見つめていたなどと言われたら、霊の存在を信じざるを得ないではないか。結局父のミステリーはミステリーのままで終わってしまった。その後父がミステリーについて語ることは二度と無かった。これだけの話であるが、霊の存在など全く信じない人だっただけに、世の中には何か摩訶不思議ことがあるものだと思ったのである。
次回は息子に起きたある不思議な話。

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ミステリー

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先だって霊視者(霊が見える人)という人と1時間ほど親しく懇談する機会を得ました。
息子がこの霊視者に自分の将来を見て貰い、なるほどという御宣託を得てのつきあいらしいが、別に特別な人という違和感は全くなかった。
まあ私が霊視者を信じる信じないは最後に述べる。
元来私は占いとか霊能者とか全く信じていなかった。それは経済学者だった父の影響が
多いにある。父は私に輪をかけた霊能、占い嫌いだった。
話は逸れるが私が少年時代、葬儀社で必ず「浄めの塩」が配られた時代に、葬式から帰ってきた父に、母が当然のように塩を振りかけた時、「何をするか!葬式は不浄なものではない」と父は怒った。これ以来葬式は「不浄なものではない」という意識が染みついている。今でも霊柩車に出会うと縁起が悪いと思う人がいるが、とんでもない話である。与えられた人生の終焉を終えた人に心から敬意を表すのがエチケットである。いずれ自分自身に起きることである。葬式が縁起が悪いと思うのは自分自身を卑しめる行為である。
父は私が物心ついたときから毎朝仏壇でお経を唱えていた。しかし父の宗教観は、神仏を敬い神仏に頼らずだったと思う。神様や仏様が自分を助けてくれるのではない。自分が心を無にして仏に手を合わせることによって自分が正しい道を選ぶことが出来るという考えだった。父は自分の母が眠るお墓参りは欠かさなかったがだ、大病を患った後は、かなり急な階段を登るために転んで怪我でもしたらかえっておばあちゃんが悲しむとかいって、墓参りは一切しなくなった。こういう父だったが、私に毎朝拝むことを強要することは一切なかった。ある法事で父が「私が死ねばこの子も朝拝んでくれるのでしょうね」と法事のお坊さんと話をして居た記憶がある。現在私は朝晩必ず般若心経と舎利礼文を唱えているが、これは父が亡くなる一年ぐらい前から始めたので、まあささやかな親孝行をしたと思っている。
こんな祖父や父親に育てられた息子(一歳の時から祖父、祖母と一緒に暮らし始めた)は、占いなどに興味はなかったはずなのに、今や占いや霊視者を信じるようになってしまった。しかしそれにはある出来事があったからである。
その前に科学的根拠がないものは全く信じなかった父に起こったあるミステリーを紹介します。
次回へ続く。

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花火大会

正面に見える女神大橋の夜景

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大花火大観衆の夢が散る 游子

昨夜恒例の花火大会を見に行く。
十数年前、雲仙市小浜温泉で開催されている「九州花火師大会」をかぶりつきで見てから病み付きになる。今年は一眼レフカメラで撮ってやろうと張り切って行ったものの、
開始ぎりぎりに着いたため、カメラの設定が暗くて分からない。30枚ぐらい撮ったのに
写っていたのはかろうじて一枚のみ、友人にはセミプロと言いながら恥ずかしい結果となった。来年もあると、途中で諦めて楽しむことに専念する。
目の前の海上から揚がるので、大花火は頭の上から降ってきて、何とも迫力がある。
花火を見ていると雑念が消え失せ、言うに云えない幸せな気分を味わえる。
すぐ側に黒のタンクトップを着た族っぽいカップルのツーペアが居たのだが、一人が
「ブラボー」と叫ぶと、すぐ後ろにいた70代の爺さんが「おー!いいぞ、ブラボー」と叫ぶ。カップルの女の子がひっくりがえって笑う、調子に乗った爺さんが「兄ちゃんほかになんか言い方はなかとね」と言うと、別の兄ちゃんが「グッド、グッド」と叫ぶと、また爺さんがまねして「オー!グッド、グッド」周りは爆笑の渦。世代も違う身も知らぬ同士が、一緒になって楽しみあう、これも花火の醍醐味といえるかも。
3000発だったので、20分ほどで終わったが皆満足そうに家路へと帰って行きました。

かろうじて写っていた一枚

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7月俳句会

東京から毎月参加されているKさんの奥さんが今月参加されました。
兼題は、「夏服」、別に強制ではないので夏の雑詠でもOKとなっています。

 誇るでもなく夏服の胸豊か   蕉露

 手に上着もつて夏服姿成る   蕉露

 夏服の孫に抜かれし背の丈   路子

 夏の日の少年にくる変声期   路子

 白服に変わり思春期清々し   山人

 初蝉のか細く鳴きて仕舞いけり 山人

 麻の服皺も一つのお洒落とし  洋子

 産卵を終へし目高にやつれ見え 洋子

 衣装箱父の夏服そのまゝに   千代美

 夏衣朝茶の席に招かれて    千代美

 甚平を纏ひて心和みけり    伯水

 百足出で我飛び跳ねつ取り逃がす 伯水

 自家製の胡瓜一本土産とす   寂水

 日傘さす我が女房の遠く見え  寂水

 ギンガムの夏の制服あどけなき 汀子

 恙なく一日の旅程髪洗ふ    汀子

 夏服や細くなりたる妻の腕   慶秋

delicious 湖の少し寂しき花火かな    慶秋

 夏服の見上げてをりぬ掲示板  智恵

 夕立のそこまで来てる空の色  智恵

俳句談義

「ピイヒョロロ鳶の高音に昼寝覚」 山人

三点入りその内一点は特選句だった。特選句とは自分以外の全句の中から一番よいと思った句に二重丸を付ける。つまり今月(<一人6句出しで6句選ぶ>出席11人だったから)は、60句の中から一番よい句と思われたことになる。
しかし句歴50年を超える主宰夫妻から、「ピイヒョロロ」がだめだと言われた。まあ鳶の高値はピイヒョロロに決まっているというわけであろう。そこで作り直すと

「昼寝覚鳶の高音や頻(しき)りなる」

となる。しかしこれだと多分点は入らなかったと思う。遊び心で詠んだ句であり、昼寝覚が効いていて「ピイヒョロロ」がポイントだったから満足すべき結果だったが、
超ベテランからすれば、なんだこんな句となってしまう。俳句が難しくておもしろい所以である。

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テレビ雑感

水曜日にTBSで「食糧危機、あなたは生き残れますか?」という緊急報道特番を放送していた。途中までしか見なかったが、食糧自給率39%の実態などを詳しく具体的に検証し、番組自体はなかなかの出来だったと思う。
しかしながら、世界では餓死者が1日4万人、年間では1500万人と言われているなかで、大食いタレントに日本全国の都道府県の料理を番組内で完食させるなど、理解に苦しむ放送がされている。この手の大食いとか早食いを面白がる視聴者がいるとはいえ言語道断である。このての低級番組を止めさせることが出来るのは経営者だけである。番組は自分の会社の商品である。かような欠陥商品を野放しにしているのは、番組を全く見ていないとしか言いようがない。民放経営者の頭にあるのはただ視聴率と、売り上げだけなのであろう。売れれば商品内容に問題があっても知らぬ顔の商売と全く同じである。民放各社の本社ビルは他を圧する威容を誇っても、肝心の番組は建物の豪華さに反比例している。
CMの入れ方にしても、視聴者があってこそのCMなのに、お前らがテレビをただで見られるのは、CMのお陰である、よってまずCMを見てから見せてやろうという番組がまかり通る。多分テレビのセットインユース(テレビのスイッチが入っているかどうか)は減り、今期の民放各社の売り上げは頭打ち、先行きの見通しは暗いと言わざるを得ない。
この危機を脱するには、初心に戻り良心的な放送を心がける以外に道はないと思うが番組を見る限り、危機感など皆無である。
食糧危機は重大であるが、テレビは見なければそれですむ。地上デジタルを盛んに宣伝しているが、山人の地上デジタルテレビを見る機会は減るばかりである。

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ボウリング7月例会

六月例会はバイオリズムの身体が最低の一つ前だったので成績が悪いのはそのせいでは思ったのだが、今月は最低のところにあった。いやな予感がしたのだが、占いとか縁起を担ぐのは大嫌いなので忘れたつもりだったのに、結果は今年のワースト。
何ともしゃくに障る結果となった。

       HG、LG、 4G計、HD、合計、AV、HG
1  
   とし、212、180、808、 64、872、183、216
(ぶっちぎりの優勝)

2  たけ、205、176、756、 96、852、173、217
(久しぶりに実力発揮)

3  たか、188、140、630、204、834、139、191
(ボールを軽くして少し上向き)

4  しげ、222、156、705、 96、801、170、222
(ハイゲーム更新)

5  ゆき、169、134、579、188、767、142、178
(三ヶ月ぶりにしてはまあまあ)

6  なお、137、 90、472、288、760、108、155
(ハウスボールでは?)

7  みほ、149、 95、510、248、758、123、164
(まだ本調子ではない)

8  ひろ, 164、101、533、224、757、132、180
(まだ体調が今一)

9  やす、151、117、532、216、748、132、188
(可もなし不可もなし)

10 まつ、186、104、547、176、723、136、186
(三ヶ月前骨折したにしては上出来)

11 みち、110、104、429、260、689、116、167
(低レベルで安定)

12 じん、136、101、501、172、673、143、204
(2ゲーム目でスプリット6回)

13 しん、106,  83, 384, 288, 672, 107, 166
(気力がもう少し)

6日に梅雨明けして真夏日が続いている。例年だと梅雨明けと同時にクマゼミが一斉に鳴き出すのに、初蝉は法師蝉だった。クマゼミも一度鳴いただけで途絶えてしまった。
週末から蝉時雨が始まるのだろうが、異常気象の最中である。今夏、西日本は猛暑という予想が出ているが、またいかなる異変が起きることやら悩ましい限りである。

日田の古民家(リンクしている「古里の四季」、友人Yさんの絵画、著作権クリア)

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